弁護士 深澤諭史のブログ

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タグ:刑法

はじめに

認識していなかったから無罪という事件(話題)が、最近相次いで話題になっています。

客観的には確かに犯罪に当たる行為をしたにもかかわらず、その人に認識がないということで、無罪になる、これについては、一般の市民からは疑問の声がたくさん上がっています

そして、それは自然な感情であるといえるでしょう。

ただ、科学においては自然な感情による判断と、実際の科学的な判断、真実が一致しないことは多くあります。

そして同様に、法学、法律、法制度についても、同じことがいえます。自然な感情には反していても、よくよく検討してみると、それが合理的であり、正義にかなう、ということも実は多くあります。

そして、この「認識」すなわち「故意」の問題についても、同じことがいえます。

ここでは犯罪について、なぜ認識がないと処罰されないのが原則なのか、そして、認識がある(=故意がある。)とは一体どういうことで、どういう認定をするのか、という事についてお話ししたいと思います。

犯罪の基本:刑法に定めがある

まず、基本ですが、犯罪というのは、刑法に定められています。「刑法」という法律のほか、いろいろな特別法(ここでは、単にまとめて「刑法」といいます。)で犯罪が定義され、また刑罰が定められています。

法律に定められていない限り、犯罪ではありませんし、また、犯罪でも定められた刑罰以外の刑罰を科せられることありません。これを罪刑法定主義と言います。

認識つまり故意が必要ということも刑法に定めがある

そして、認識がないと犯罪にならないのが原則、ということについては、ちゃんと法律の定めがあります

刑法第38条には、次のように書かれています。

○刑法第38条1項 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。

ここでいう、「罪を犯す意思」というのは、犯罪を行っているという認識、つまり故意のことをいいます。

また、「特別の規定」があればこの限りではない、とありますが、これは、例えば、自動車運転過失致死傷など、わざとでなくても不注意で処罰をする、これを過失犯といいますが、そういう規定を予定しているというものです。

故意犯処罰の原則とその帰結

このように故意の犯罪、つまり故意犯だけを処罰することが原則であることを、故意犯処罰の原則といいます。

この規定の帰結として、例えば、殺人罪で罰するためには客観的に人を殺したというだけではなく、人を殺すという意思つまり故意が必要です。あるいは、これは窃盗罪についてもいえますが、窃盗罪で処罰するためには、人のものを盗むという意思が必要です。

例えば、マネキンだと思って包丁で突き刺したんだけれどもそのマネキンが、本当は人間だった場合には、殺人罪で処罰することはできません

同様に、「ご自由におとり下さい」という事で、自由に持っていっていいものだと勘違いして、実はそうではなかった場合にも、窃盗罪で処罰することができません。

このように、認識のあるなしで、犯罪になるかならないか、あるいは、その重さが大きく変わります。

自動車の運転で、人を引き殺してしまった場合、わざとやれば最高で死刑もありますが、そうでなければ、不注意ということであれば最高で7年の懲役ということになります。

故意犯処罰の原則は、刑法の役割からして当然のこと

では、なぜこのように、大きな違いが生じるのでしょうか。実はそれは、刑法の目的からして、当然のことなのです。

刑法の役割は、大きく2つあります。1つは、法益を守ると言う役割です。法益というのは、法律によって守られるべき権利、利益といった意味です。例えば殺人罪であれば人の命を守るために存在します。

これはどういうことかと言うと、犯罪を犯すと処罰されます。処罰を受けたくないのであれば、犯罪をしないということになります。要するに、刑罰によって人を警告しあるいは威嚇して、犯罪から遠ざけようとする機能が刑法にはあるのです

次に、自由を保障するという機能も刑法にはあります。

最初に、刑法(なお、特別法含むのは上記の通りです。)で定められていなければ犯罪にならない、ということをお話ししました。

これは逆に言えば、刑法で書いていなければ、少なくとも犯罪にはならない(民事上の賠償責任とか、行政処分はあり得ます。)、という意味で、その範囲で自由が保障されるということがいえます。

自由な社会とその発展のためには、自由が保障されていることが重要です。

したがって刑法は、定められていない部分において、自由を守るという機能を持っています。

そして、この2つの機能からすれば、認識がない行為、つまり故意がない行為を処罰するというのは、意味がないし、むしろ有害である、ということがいえます。

なぜ、故意犯処罰の原則が刑法の機能から当然といえるのか

最初に、法益を守る機能の視点から考えています。

そもそも刑法は、刑罰を予告して警告して、威嚇して犯罪から遠ざけようとするものです。

これは、例えば立入禁止の立て札のようなものです。

実際に立入禁止かどうかは、地面の色が変わっているわけでもなければ、わかりません。

しかし、立て札があることで、そしてそれを現に見ることで、ここに入ってはいけないということが認識できます。

つまり人間は、当たり前のことですが、禁止されているということを認識していなければ、それを守ることができないのです

別の例として、他人に荷物を運ぶことを依頼されたとしましょう。

これが、例えば覚醒剤であるとか、特殊詐欺の被害品であるとか、あるいは爆弾であれば、罪に問われることになります。

もしそれを知っていれば、処罰されないために、それを断ると言うことになります

一方で、それを知らなければ、断るというところまで、考えが及びません。つまり、認識のない行為を処罰したところで、人間は、そういう行為を回避するようにならない(つまり、刑罰の威嚇がきかない。)ので、意味がないのです。

自由を保障する機能という点から見ても、同じことがいえます。

自分が認識していない、あずかり知らないところで、自分の行為が犯罪になるとすれば、人は怖くて行動などできません。

例えば、お店で包丁を売る場合でも、この人がこれから人を殺すために包丁を買うんだと言うことを知っていながら、あえて売ればそれは殺人の幇助になります。

ここで、それを知らなくても殺人の幇助になる、ということになれば、いちいち詳細に確認しなければならないですし、仮に確認しても、巧妙に隠されてしまえばそれまでです。

そうなると、怖くて、商売などできたものではありません

このように、刑法の役割から考えれば、認識のある、つまり故意の行為だけを処罰すれば、基本的には必要にして十分です。ごくわずかな例外で、過失つまり不注意を処罰すればそれで足りる、ということになります。

逆に、認識がない行為、つまり結果的に犯罪ということがわかれば、後付けで処罰されてしまう、という制度を作ったとしても、それで溜飲を下げる人はいるかもしれませんが、刑法の役割からすると、社会を犯罪から守るとか、あるいは自由を保障するとか、と言う観点から全く関係がなく、有害であると言うことになります。

故意はしらを切れば否定されるというものではない

それでは、次に問題になってくるのが、「そうはいっても、認識がなければ処罰されない、ということになれば、しりませんでした、わからなかったと、しらを切ればそれで済むのではないか。それは不当ではないか。」ということです。

結論からいうと、そんなことありません。

認識つまり故意というのは、わざとやる、あるいはそうなっても構わないという認識、心理状態のことをいいます

そうなりますと、これは頭の中の事ですから、外から見てもわかりません。

では、実際にどのようにそれを認定するかというと、客観的な行動など、種々の事情から認定をしていくことになります

例えば覚せい剤の密輸であれば、高額な報酬を約束されていたとか依頼の状況とか、あるいは殺人の故意、つまり殺意であれば、武器を使ったとか使ってないとか使い方であるとか、攻撃をした場所とか、そういうことから認定することになります。

実務上も、単にしらをきればそれが通じるとか、そんな単純な話ではありません

まとめ

さて、この問題については、認識がなければ無罪放免か、という素朴な感情の問題、そして認識つまり故意に関する事実認定の方法など、複数のトピックが絡んできます。

複数の論点がある問題については、ネットでの議論というのは混迷しがちで、現に誤解に基づく批判や議論などが繰り広げられています。

疑似科学とか、インチキ治療法が蔓延するのと同様に、素朴な直感による結論と、専門分野における結論、というものは、必ずしも一致しません。

まずは、立ち止まって、問題をよく分解して考えることが大事ではないか、と思います。

法律の中には,違反した場合の罰則が定められているものがあります。これを刑罰法規とか,広義の刑法といったりします。

刑罰法規の目的は,一定の行為を抑止して法益(人の生命身体とか法律により守るべき利益のことをいいます。)を守ることや,一定の行政目的の達成などがあります。

ところで,刑罰法規は,誰に適用があるのでしょうか?
もちろん,「みんな」にあります(ただし,公務員が賄賂を受け取る収賄罪とか,一定の地位・身分がないと成立しない犯罪もあります。)が,ここでいう「みんな」とはだれなのでしょうか。外国人に適用はあるのでしょうか。

結論からいうと,刑罰法規は日本国内で行われた行為全てに適用があるとされています。したがって,外国人についても,日本国内で行った行為には適用があります。

逆に,原則として国外で行った行為については,日本の刑罰法規の適用はありません。たとえば,賭博は日本では犯罪ですが,海外旅行にいってギャンブルをしても犯罪にならないのは,国外での犯罪であり,日本の刑罰法規の適用がないからです。

ただし,この原則は例外が非常に広いです。たとえば,傷害や放火といった犯罪は,国外で行っても日本国民であれば日本の刑罰法規の適用があります。
また,大麻の犯罪についても同様で,法律上,日本国民が海外旅行にいって,大麻が解禁されている国で大麻を譲り受けて所持したとしても,犯罪になるとされています(個人的には,処罰範囲として少し広いのではないか,とも思います。)。

さて,ここからが本題ですが,日本ではわいせつ物を頒布したり,その目的で製造をすることが禁じられています。ここでいうわいせつ物とは,かなり判断が難しいのですが,一般に性器が露骨に描写されているなどの表現物が該当するとされています。
ですから,アダルトビデオや成人向け書籍で「修正」が加えられているのは,この「わいせつ物」に該当しないようにするためです。逆に,これが不十分だとわいせつ部頒布等の罪に問われることになります。

さて,最近は,各種の販売プラットフォームサービスを利用して,日本国内の個人や会社が,海外向けにゲームや同人誌等の電子書籍を販売する例が増えています
それらのゲームや同人誌が成人向けであった場合,海外向けの製品には,上記の「修正」をしない例もあるようです(なお,同人誌が二次創作の場合は,著作権法の問題もありますが,ここでは検討しません。)。

その根拠は,上記のわいせつ物頒布等の罪は,海外で行った行為に適用はない,海外向けであり海外サーバーを利用するのだから,日本の刑罰法規の適用はない,という理解に基づくようです。
結論からいうと,この理解は誤っている,犯罪が成立する可能性が高いと考えられます。

それは,このようなケースでも,国内犯つまり日本国内での犯罪であると評価できるからです。
国内の犯罪であるかどうかの判断について,判例は,犯罪の行為や結果の一部でも,国内にあればそれで国内犯であると判断しています。
ですから,以上の例ですと,問題となるコンテンツの制作,頒布のための手続き等は国内で行われていますので,国内犯であると考えるのが自然であるといえます。

同様の理屈で逮捕された例もありますので,「国外会社・国外サーバーだからOK」とか安易に判断し,取り返しの付かないことにならないように注意が必要です

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