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「『上級国民』は刑事裁判で有利」と弁護士が思う理由
- 逮捕勾留は処罰ではなくて、証拠隠滅や逃亡の防止のために行われる。
- 上級国民は逃亡や証拠隠滅で失うものが大きい(とされる)ので、あえてしないという期待がある。
- したがって、逮捕勾留はされにくいという傾向がある。
- 他に、過失犯は法定刑が軽いなどの他の要因も組み合わさっている。
- もう少し実質的に逃亡や証拠隠滅の現実的可能性を判断して逮捕勾留に慎重になるべきという意見がある
上級国民は逮捕勾留で有利でこれは超重要
逮捕勾留を免れるということはその後の裁判でも有利
上級国民は保釈でも有利:制度の説明
- 捜査が行われる。
- 逮捕され、その後に勾留される。捜査も並行して続く。
- (起訴前の)勾留は最大20日間まで。
- 検察官が起訴(裁判所に訴え出ること)する。そして、その時点での勾留中の場合は、3の制限が外れて裁判が終わるまで勾留ができる。
- 裁判が始まり、判決が出る。
上級国民は保釈でも有利:その理由
上級国民は判決でも有利
上級国民は自分や家族で弁護人をつけることができるので有利
やっぱりこれは大問題
上級国民が「SNS等の削除を指示した」としても逮捕勾留の原因にならない理由
SNS等の削除という事情
それでも、これらの事実を逮捕勾留の理由にすることは難しい
罪証隠滅の「証拠」とは?
SNS等の削除は、罪証隠滅といいにくい(①)
SNS以外の証拠も隠滅し難い(②)
なぜ、SNS等の削除がこんなに問題視されたのか
「上級国民だから逮捕されない」は弁護士から見ても本当と思う理由
その交通事故をめぐって、あの人は逮捕されたのに、この人は逮捕されないのはなぜか、それは上級国民だからではないか、などという議論が、ネットで巻き起こっています。
この上級国民というのは、ネット上のスラングの一種です。高級公務員や大企業の重役、あるいは、政権の関係者、それらの経験者など、とにかく偉い人で、特別扱いを受けるべき人、という程度の意味だそうです。
これについてですが、誤解を恐れずに、でも、はっきりと申し上げると、「上級国民は逮捕されにくい」という事は間違いなくいえると思います。
それは、どういう理由からでしょうか。
逮捕やそれに続く勾留(両者は別物ですが、解説すると長くなるので、一括して説明します。)という手続き・身体拘束は、懲役刑など、刑罰としての拘束とは異なります。
これは、どういうことかというと、例えば、被疑者(犯罪の嫌疑を受けている人をいい、逮捕の有無は問いません。)が逃亡してしまった場合には、裁判にかけるという事はできません。
さらに被疑者が、関係者と口裏合わせをしたり、証拠品を廃棄したりなどすると、これまた、捜査は適正に行えませんし、真実も発見できず、適正な裁判を行うことも難しくなります。
正確には、これらの疑いには、そう疑うに足りる相当な理由、というレベルの根拠が必要であるとされています。
そして、証拠隠滅や逃亡の可能性というのは、理論上は犯罪の疑いとは別の概念です。
犯罪をしたというのは間違いなく認定できたとしても、逃亡や、証拠隠滅の可能性がなさそうであれば、逮捕勾留されないこともあります。また、犯罪をしたという事について、確信がもてない場合であっても、逃亡や証拠隠滅をする可能性が高い、というケースでは、逮捕勾留が認められやすくなります。
以上を前提に、上級国民について、考えています。
また、上級国民といえども、証拠隠滅をすれば身柄を拘束されることになります。そうなると、そんなリスクを冒して証拠隠滅をする可能性もない、ということになるでしょう。
そういうわけで、上級国民という身分(そんなものがあるわけではないですが)そのものに着目をしているというわけではありませんが、結果的に、上級国民の持つような属性が、逮捕勾留を否定するような事情になっている、ということがいえると思います。
以上乱暴にまとめてしまうと、上級国民だと逮捕されにくいというのは、一応は真実であるといえると思います。
上級国民の持つ高い地位、生活など「だけを」特別扱いして、そうでない人の立場を軽視するような判断は、あまり賛成できるものではありません。
これは、上級国民「も」逮捕しろ、ということではありません。上級国民でなくても、しっかりと逃亡や証拠隠滅の現実的な可能性、相当な理由を確実な資料から認定し、そうでないなら、「一般国民」も逮捕勾留するべきではない、ということです。上級国民でない人々にも、かけがえのない生活があることには変わりありません。
認識していなかったら、故意がなかったら(知らなかったら)無罪!?という話
はじめに
認識していなかったから無罪という事件(話題)が、最近相次いで話題になっています。
客観的には確かに犯罪に当たる行為をしたにもかかわらず、その人に認識がないということで、無罪になる、これについては、一般の市民からは疑問の声がたくさん上がっています。
そして、それは自然な感情であるといえるでしょう。
ただ、科学においては自然な感情による判断と、実際の科学的な判断、真実が一致しないことは多くあります。
そして同様に、法学、法律、法制度についても、同じことがいえます。自然な感情には反していても、よくよく検討してみると、それが合理的であり、正義にかなう、ということも実は多くあります。
そして、この「認識」すなわち「故意」の問題についても、同じことがいえます。
ここでは犯罪について、なぜ認識がないと処罰されないのが原則なのか、そして、認識がある(=故意がある。)とは一体どういうことで、どういう認定をするのか、という事についてお話ししたいと思います。
犯罪の基本:刑法に定めがある
まず、基本ですが、犯罪というのは、刑法に定められています。「刑法」という法律のほか、いろいろな特別法(ここでは、単にまとめて「刑法」といいます。)で犯罪が定義され、また刑罰が定められています。
法律に定められていない限り、犯罪ではありませんし、また、犯罪でも定められた刑罰以外の刑罰を科せられることありません。これを罪刑法定主義と言います。
認識つまり故意が必要ということも刑法に定めがある
そして、認識がないと犯罪にならないのが原則、ということについては、ちゃんと法律の定めがあります。
刑法第38条には、次のように書かれています。
○刑法第38条1項 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
ここでいう、「罪を犯す意思」というのは、犯罪を行っているという認識、つまり故意のことをいいます。
また、「特別の規定」があればこの限りではない、とありますが、これは、例えば、自動車運転過失致死傷など、わざとでなくても不注意で処罰をする、これを過失犯といいますが、そういう規定を予定しているというものです。
故意犯処罰の原則とその帰結
このように故意の犯罪、つまり故意犯だけを処罰することが原則であることを、故意犯処罰の原則といいます。
この規定の帰結として、例えば、殺人罪で罰するためには客観的に人を殺したというだけではなく、人を殺すという意思つまり故意が必要です。あるいは、これは窃盗罪についてもいえますが、窃盗罪で処罰するためには、人のものを盗むという意思が必要です。
例えば、マネキンだと思って包丁で突き刺したんだけれどもそのマネキンが、本当は人間だった場合には、殺人罪で処罰することはできません。
同様に、「ご自由におとり下さい」という事で、自由に持っていっていいものだと勘違いして、実はそうではなかった場合にも、窃盗罪で処罰することができません。
このように、認識のあるなしで、犯罪になるかならないか、あるいは、その重さが大きく変わります。
自動車の運転で、人を引き殺してしまった場合、わざとやれば最高で死刑もありますが、そうでなければ、不注意ということであれば最高で7年の懲役ということになります。
故意犯処罰の原則は、刑法の役割からして当然のこと
では、なぜこのように、大きな違いが生じるのでしょうか。実はそれは、刑法の目的からして、当然のことなのです。
刑法の役割は、大きく2つあります。1つは、法益を守ると言う役割です。法益というのは、法律によって守られるべき権利、利益といった意味です。例えば殺人罪であれば人の命を守るために存在します。
これはどういうことかと言うと、犯罪を犯すと処罰されます。処罰を受けたくないのであれば、犯罪をしないということになります。要するに、刑罰によって人を警告しあるいは威嚇して、犯罪から遠ざけようとする機能が刑法にはあるのです。
次に、自由を保障するという機能も刑法にはあります。
最初に、刑法(なお、特別法含むのは上記の通りです。)で定められていなければ犯罪にならない、ということをお話ししました。
これは逆に言えば、刑法で書いていなければ、少なくとも犯罪にはならない(民事上の賠償責任とか、行政処分はあり得ます。)、という意味で、その範囲で自由が保障されるということがいえます。
自由な社会とその発展のためには、自由が保障されていることが重要です。
したがって刑法は、定められていない部分において、自由を守るという機能を持っています。
そして、この2つの機能からすれば、認識がない行為、つまり故意がない行為を処罰するというのは、意味がないし、むしろ有害である、ということがいえます。
なぜ、故意犯処罰の原則が刑法の機能から当然といえるのか
最初に、法益を守る機能の視点から考えています。
そもそも刑法は、刑罰を予告して警告して、威嚇して犯罪から遠ざけようとするものです。
これは、例えば立入禁止の立て札のようなものです。
実際に立入禁止かどうかは、地面の色が変わっているわけでもなければ、わかりません。
しかし、立て札があることで、そしてそれを現に見ることで、ここに入ってはいけないということが認識できます。
つまり人間は、当たり前のことですが、禁止されているということを認識していなければ、それを守ることができないのです。
別の例として、他人に荷物を運ぶことを依頼されたとしましょう。
これが、例えば覚醒剤であるとか、特殊詐欺の被害品であるとか、あるいは爆弾であれば、罪に問われることになります。
もしそれを知っていれば、処罰されないために、それを断ると言うことになります。
一方で、それを知らなければ、断るというところまで、考えが及びません。つまり、認識のない行為を処罰したところで、人間は、そういう行為を回避するようにならない(つまり、刑罰の威嚇がきかない。)ので、意味がないのです。
自由を保障する機能という点から見ても、同じことがいえます。
自分が認識していない、あずかり知らないところで、自分の行為が犯罪になるとすれば、人は怖くて行動などできません。
例えば、お店で包丁を売る場合でも、この人がこれから人を殺すために包丁を買うんだと言うことを知っていながら、あえて売ればそれは殺人の幇助になります。
ここで、それを知らなくても殺人の幇助になる、ということになれば、いちいち詳細に確認しなければならないですし、仮に確認しても、巧妙に隠されてしまえばそれまでです。
そうなると、怖くて、商売などできたものではありません。
このように、刑法の役割から考えれば、認識のある、つまり故意の行為だけを処罰すれば、基本的には必要にして十分です。ごくわずかな例外で、過失つまり不注意を処罰すればそれで足りる、ということになります。
逆に、認識がない行為、つまり結果的に犯罪ということがわかれば、後付けで処罰されてしまう、という制度を作ったとしても、それで溜飲を下げる人はいるかもしれませんが、刑法の役割からすると、社会を犯罪から守るとか、あるいは自由を保障するとか、と言う観点から全く関係がなく、有害であると言うことになります。
故意はしらを切れば否定されるというものではない
それでは、次に問題になってくるのが、「そうはいっても、認識がなければ処罰されない、ということになれば、しりませんでした、わからなかったと、しらを切ればそれで済むのではないか。それは不当ではないか。」ということです。
結論からいうと、そんなことありません。
認識つまり故意というのは、わざとやる、あるいはそうなっても構わないという認識、心理状態のことをいいます。
そうなりますと、これは頭の中の事ですから、外から見てもわかりません。
では、実際にどのようにそれを認定するかというと、客観的な行動など、種々の事情から認定をしていくことになります。
例えば覚せい剤の密輸であれば、高額な報酬を約束されていたとか依頼の状況とか、あるいは殺人の故意、つまり殺意であれば、武器を使ったとか使ってないとか使い方であるとか、攻撃をした場所とか、そういうことから認定することになります。
実務上も、単にしらをきればそれが通じるとか、そんな単純な話ではありません。
まとめ
さて、この問題については、認識がなければ無罪放免か、という素朴な感情の問題、そして認識つまり故意に関する事実認定の方法など、複数のトピックが絡んできます。
複数の論点がある問題については、ネットでの議論というのは混迷しがちで、現に誤解に基づく批判や議論などが繰り広げられています。
疑似科学とか、インチキ治療法が蔓延するのと同様に、素朴な直感による結論と、専門分野における結論、というものは、必ずしも一致しません。
まずは、立ち止まって、問題をよく分解して考えることが大事ではないか、と思います。